16世紀初頭のドイツとネーデルラント

16世紀初頭のドイツとネーデルラント

 

ドイツの偉大な画家、アルブレヒト・デューラーは、旅をする最中で、絵画のあらゆる技術を身につけ、中世末期のドイツを覆っていた、教会精度への不満を基に、終末論的なヴィジョンを木版画にしています。

 

デューラーの聖ミカエルの竜退治です。

 

 

 

 

デューラーは、お決まりのポーズ、宿敵と戦う優雅な英雄ではなく、戦うことに必死な英雄を描いています。

 

また、デューラーは、自然を忠実に写し取ろうともしています。

こちらは、デューラーの大きな芝生です。

 

 

 

 

そして、同じくデューラーのキリスト生誕

 

 

 

 

この版画から、自然の模倣へと舵を切ってきたゴシック美術をデューラーが完成させたと考える人もいるそうです。

しかし、デューラーの中には、イタリアの芸術家達が投げかけた問題が片時も離れませんでした。それは、人体の理想的表現です。

デューラーは、目の前の事物を模倣するだけでは足りないと気づいたそうです。

そして、研究を重ね、その研究の成果の一つが、こちら。

 

アダムとイブです。

 

 

 

 

コンパスと定規で入念に計測し、バランスを測りながら作り出された調和のとれた体型だそうです。

 

そして、デューラーと並ぶドイツの偉大な画家、グリューネバルトの磔刑図です。

 

 

 

グリューネバルトの美術の目的は、理想の美を追求することではなく、絵による説教だったそうです。

そんな彼のキリストの復活です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16世紀後半のヨーロッパ。タイトルは美術の危機です。

 

1520年頃、イタリアの美術通達は、絵画は完成したと考えたそうです。

どんなデッサンも出来るし、どんな複雑な題材でも扱える画家が出てきた、と。

名高いギリシャ・ローマの彫刻さえ超えたと考えられたそうです。

 

そして、画家達はミケランジェロの画風を真似、この時期をマンネリズムの時代と呼んだ批評家もいたとか。

 

しかし、どんな素晴らしい作品も時間が経てば飽きられる、と考えた画家達は、人々の注目を集めるため、独創性を目指したそうです。

そんな時代の画家、パルミジャニーノの長い首の聖母です。

 

 

 

 

 

パルミジャニーノは、作品を優雅に見せたいがために、色々なところ、首や腕、脚などを長く描いた。そして、その効果をより高めるために絵の左後方には、細長い柱を描きこんだそうです。

 

しかし、この名匠たちの影におびやかされる奇妙な時代に、素晴らしい作品を残した彫刻家も居ます。ジャンボローニャです。

彼の作ったメルクリウスです。

 

 

 

 

物質の重さから開放され、飛んでいるような姿を作ろうとした。

彫像とは、材料に使われる物質の重さを感じさせることが大切だそうです。

しかし、ジャンボローニャは、そういう決まりごとをしりぞけ、もっと驚くべき効果があることを見せ付けたかったそうです。

 

そして、16世紀後半の、巨匠、ティントレットが登場します。

まずは、ティントレットの聖マルコの遺体を盗み出すヴェネチアの商人をご覧下さい。

 

 

 

 

見たものは衝撃を受けたそうです。

光と陰、近景と遠景のコントラストがあまりにも極端であり、人物の動きや身振りがばらばらであるこの絵。

恐るべき神秘が目の前で繰り広げられる感じを出すためにティントレットは、ジョルジョーネやティツィアーノなどのヴェネチア派がもっとも誇りとしていた、甘美な色彩を犠牲にしたそうです。

そんなティントレットの竜を退治する聖ゲオルギウスです。

 

 

 

 

ティントレットは、仕上がりを気にしなかったそうです。それよりも、見る人の想像に任せることにしたそうです。

 

そして、エルグレコが出てきます。

正確なデッサンと構図を求めるような訓練を受けていなかったエルグレコは、ティントレットの絵に惹かれたそうです。

彼は、スペインに定住したそうです。そのため、正確で自然なデッサンを要求する批評家たちの声に悩まされることもなかったそうです。

エルグレコの芸術は、大胆で、現実の色や形を無視し、心を震わせるような劇的なビジョンを絵にしたそうです。

 

エルグレコ福音書記者ヨハネの幻視です。

 

 

 

 

肖像画も描いています。

修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像です。

 

 

 

 

しかし、エルグレコの絵は、その後時が流れ、悪い冗談のように扱われ、第一次世界大戦後から再び理解されるようになったそうです。

 

イタリアやスペインと比べて、ドイツ、オランダ、イングランドなど、北方の国での美術の危機はより深刻だった。宗教改革によって、絵画は生き残るべきなのか?という問題に直面していたそうです。

多くのプロテスタント信者が、絵画は偶像崇拝とみなし、それを教会に置くことに反対したそうです。また、プロテスタントの一派、カルバン派の信者たちは、住居を贅沢に装飾することも嫌ったそうです。その結果、画家は、教会からの祭壇画の注文を失い、収入が減るという危機に見舞われます。

 

そんな時代の画家、ハンスホルバインの市長マイヤー家の聖母子です。

 

 

 

 

 

ホルバインは、ドイツ最大の画家と言われています。

この作品は、もっとも調和のとれた、イタリアルネサンス方式の構図で、ベッリーニの聖母子と聖人たちを思い起こさせます。

 

ベッリーニの聖母子と聖人たち

 

 

 

 

しかし、芸術が凍り付こうとしているカルバン派のスイスを後にし、ホルバインは、イングランドに向かい、そこで、トマスモアの息子の妻の肖像画を描いています。こちらです。

 

 

 

 

リチャードサウスウェル卿の肖像

 

 

 

 

 

16世紀初頭 ヴェネチアと北イタリア

16世紀初頭 ヴェネチアと北イタリア

 

 

まずは建築から。

ルネサンス様式を受け入れたベネチアの建築で有名なのは、ヤコポ・サンソヴィーノ設計のサン・マルコ図書館です。

 

 

 

 

では、ヴェネチアの偉大な画家、ベッリーニの祭壇画、聖母子と聖人たちです。

 

 

 

 

この絵が素晴らしいのは、色彩の豊かさと柔らかさだそうです。

ベッリーニは、聖書の一場面の全体の秩序を保ちつつ、単純で対照的な構図に命を宿らせる術を心得ていたそうです。

ベッリーニも工房を構えていて、弟子には、ジョルジョーネとティツィアーノが居ます。

 

ジョルジョーネの嵐です。

 

 

 

 

美術の最高の作品の中に数えられるそうです。

 

そして、ティツィアーノ

ティツィアーノは、ミケランジェロと並び称されるほどの名声を博したそうです。

ティツィアーノの聖会話とペーザロ家の寄進者たち、です。

 

 

 

 

この絵画では、前代未聞のことが行われています。

聖母を絵の中心からずらしている。また、左右対称ではない。

しかし、色彩によって、統一感を取り戻しているそうです。

 

ティツィアーノは、肖像画でも評判が高かったらしいです。

ティツィアーノの男の肖像です。

 

 

 

 

そして、教皇パウル3世とその孫アレッサンドロ・ファルネーゼ、オセック・ファルネーゼです。

 

 

 

 

北イタリアの小さな町には、コレッジョが居ました。

コレッジョの羊飼いの礼拝です。

 

 

 

 

一見、アンバランスに見えるこの絵は、聖母マリアと御子を光で強調しているため、バランスがとれています。

 

また、コレッジョの作品は、その後、何世紀にもわたって、お手本とされてきた特色があります。教会の天井や、丸屋根を彩る描き方です。

コレッジョは光の達人であったため、天井が開いてそのまま天国の栄光が見えるような、そんな錯覚を見る者に与えようとしたそうです。天使たちの足の裏が見えるこの絵は、一部の宗教家たちからは、失礼だという声があがったとか。

 

コレッジョの聖母被昇天

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16世紀初頭 イタリア

絵画

 

16世紀初頭 イタリア

 

16世紀初頭、イタリアでは、遠近法と解剖学の発見があったそうです。

芸術家達は、遠近法を学ぶ為に数学を、人体の構造を知るために解剖学を学んだそうです。

 

そして、この時代、芸術家達の地位に変化があったそうです。

古代ギリシャの時代から、頭を使う詩人達は、富裕層にありがたがれ、手を使う芸術家達は、下にみられていたそうです。しかし、富裕層達は、芸術家を認め始めたそうです。

 

では、まず、この時代の建築から。

建築家達は、古典学者のような知識を得始めました。すると、芸術家とパトロンとの間で、諍いが起きるようになったそうです。

建築家が建てたいのは、神殿や凱旋門

パトロンが建てたいのは、都市の宮殿や教会だったそうです。

 

そして、妥協案が見出されます。

どんな妥協案だったか?

 

新しく出来る都市の宮殿に、古代の様式をあてはめたものだそうです。

 

この時代の有名な建築家、ドナートブラマンテのテンピエットです。

礼拝堂だそうです。

 

  

 

 

そして、当時の教皇は、ブラマンテにサンピエトロ大聖堂の設計を任せます。

しかし、この建築には、膨大な費用がかかる。その資金集めのために、免罪符を売り出し、宗教改革へと流れていったそうです。結果、ブラマンテの設計は実現せず、後に出てくる画家、ラファエロがサンピエトロ大聖堂の建築を一任されたそうです。

 

では、絵画の世界はどうだったか?

あのダヴィンチが、フィレンツエの工房、ヴェロッキオのところに弟子入りします。

 

ヴェロッキオのコッレオーニ騎馬像です。

 

 

ダヴィンチは、工房でも天才だったそうです。

ダヴィンチの人体解剖図です。

 

 

ダヴィンチは、芸術家達の地位の低さを嘆き、芸術を科学的に基礎づけることが出来れば、絵描きの仕事の地位もあがるという信念のもと、様々なことを学んだそうです。

 

ダヴィンチの最後の晩餐です。

ミラノにある修道院の壁一面がこの絵だそうです。

 

 

 

当時の美術は、本物とそっくりであることが重要だったそうです。

ダヴィンチは、聖書に戻って、最後の晩餐の時を思い描き、それを忠実に絵にしたそうです。

 

そして、有名なモナリザです。

ちなみに、私は、インターネット上で、自分はモナリザに似ていると嘘をついております。

内緒にして下さい。

 

 

 

ダヴィンチは、このモナリザで、スフマートという技法を使っているそうです。

スフマートとは、輪郭線をはっきりと描かず、物の形が陰の中へ消えていくように、多少ぼんやりと描く方法だそうです。そうすれば、乾いて硬い感じはなくなるだろうと思ったそうです。

 

 

そして、ダヴィンチと同じフィレンツエにミケランジェロが居ました。

彼は、ダヴィンチより若く、芸術家達の地位が変わったことを目に出来たそうです。

ミケランジェロは、13歳で、ギルダンライオの工房に弟子入りしています。

 

ギルダンライオのマリアの誕生です。

 

 

 

しかし、ミケランジェロは、ギルダンライオの工房を辞めて、ギリシャやローマの彫刻家の作品を学び始めます。

ミケランジェロは、人体という謎を徹底的に学ぶため、心血を注いだそうです。

そんなミケランジェロシスティーナ礼拝堂です。

 

 

 

同じくミケランジェロリビアの巫女たちのための習作です。

 

 

 

システィーナ礼拝堂のお仕事を4年間もかけて終えたミケランジェロは、ミケランジェロが愛した大理石という素材で、瀕死の奴隷という像を作っています。

こちら。

 

 

システィーナ礼拝堂、そして瀕死の奴隷で、ミケランジェロの名声はかつてないほど高まったそうです。そんなミケランジェロに、誰もが、絵を彫刻をお願いしたいと競い合ったそうです。

 

ミケランジェロダヴィンチが名声を博していた時代、ラファエロの師匠ペルジーノが、聖ベルナルドゥスの幻視という祭壇画を描いています。

こちらです。

 

 

そして、ペルジーノのもとに、あのラファエロが弟子入りします。

ラファエロは、フィレンツェで活躍するダヴィンチ、ミケランジェロを見て、興奮し、お勉強しようと決意されたそうです。

また、ラファエロは、ダビンチやミケランジェロと違って、社交性が高く、有力なパトロンもついたそうです。

 

ラファエロの大公の聖母です。

 

 

 

 

同じくラファエロのガラティア

 

 

 

ラファエロの作品には、明快な美があるそうです。

そして、自然を美化したとしても、真実味が失われていないのが、ラファエロの作品の特徴だそうです。

 

そんなラファエロ肖像画も残しています。

 

 

レオ10