新しい基準を求めて 19世紀末
新しい基準を求めて 19世紀末
この時代、産業革命による大量生産を批判する人々が出てきました。
ジョンラスキンやウィリアムモリスは時代を嘆き、安っぽい大量生産に代えて、良心的で独自の意味をもつ手工芸品を復活させることを目的としました。
その結果、手作りを愛好する人々が増えたそうです。
建築の世界においては、1890年代、アールヌーヴォーという新しい芸術が打ち出されたそうです。そして、東洋のデザインに注目する建築家も増えたそうです。
そんな中、ベルギーの建築家、ヴィクトール・オルタが、日本のデザイン、左右対称へのこだわりを捨て、曲線美を求めるデザインに触発され、建築を始めました。
タッセル邸の階段です。
絵画の世界では、モダンアートの父、ポール・セザンヌが登場します。最初は印象派の個展に出展していたのですが、故郷であるエクサンプロヴァンスに戻り、自身の芸術的課題を追求したそうです。セザンヌの芸術的課題とは、印象派の画家達のように自然に忠実でありながら、プッサンのように明瞭でバランスのとれた絵画を描く、ということだったらしいです。
セザンヌの課題は、美術界において目新しいものではなかったそうです。15世紀のイタリアでも、あるがままに描けるようになったことと、遠近法の発見によって、中世絵画の明快な構図が危うくなりました。セザンヌは、明快な図柄を求めると同時に、強烈な色彩を熱望したそうです。
静物です。
セザンヌは自身の課題を解決するために、輪郭の正確さを犠牲にしても構わないと考えていたそうです。そして、このことが、美術の世界に多大な影響を後に及ぼしていきます。
同じ頃、セザンヌと同じ課題に取り組んでいた画家が居ました。ジョルジュ・スーラです。
印象派の手法から出発したスーラは、小さい規則的な色の断片をモザイク状に集めて、絵を描こうと決めたそうです。後にこの方法は、点描法と呼ばれるようになります。スーラは自然の忠実な表現から遠ざかっていきました。
スーラのクールヴボアの橋です。
そして、この頃、オランダ人、ゴッホが、パリから南フランス、アルルへと飛び立ちました。ミレーの絵と、その社会的なメッセージに心を打たれて画家になろうと決心したそうです。
ゴッホの糸杉のある麦畑です。
ゴッホもまた、印象派やスーラの点描法の考えを吸収していたそうです。
サント・マリー・ド・ラ・メールの眺めです。
明らかにゴッホは、物の姿を正確に写し取ることに主眼を置いてはいなく、物を見て、自分が感じることを、色と形で伝えたかった。ゴッホとセザンヌは、自然の模倣という絵画の目的を敢えて捨てたことになります。
セザンヌは、色と形の新しい関係の追及であり、その実践にとって不必要なら正確な遠近法にこだわることはなく、ゴッホは、絵によって心の動きを表したかった。
ゴッホのアルルの寝室です。
そして、ゴッホがいた南フランスに、もう一人、ポールゴーギャンという画家が居ました。ゴッホとゴーギャンは共同生活を送りますが、ゴッホがゴーギャンを襲い、ゴーギャンはパリへ逃げ、その後、タヒチへと渡ります。ゴーギャンは文明への嫌悪感を持っていたらしいです。
ゴーギャンのテ・レリオアです。
ゴーギャンは、原始的な美術様式と調和するように描こうとしたそうです。
そのためには、単純な輪郭線で形を表すようになり、強烈な色彩で部分部分を塗りつぶすことも憚らなかったそうです。単純さと率直さを求めたそうです。
この時代の画家、ピエールボナールは、遠近法と奥行きの強調を避け、色彩豊かな作品で見るものの心を楽しませようとしたそうです。
ピエールボナールの食卓です。
そして、スイスのフェルディナント・ホードラーのトゥーン湖です。
この時代、私の大好きなロートレックが登場します。
ロートレックのブリュアンです。
永久革命 イギリスとフランス 19世紀
永久革命 イギリスとフランス 19世紀
この時代、産業革命が伝統的な職人技を破壊し始めたそうです。
その変化は、まず、建築に現れたそうです。
注文主は、例えば、入り口はゴシック様式に、建物全体は、バロック様式に・・・と注文したそうです。奇妙な建物が出来上がっていく中、今現在でもランドマークとして溶け込み、人々の視線を集めているのが、ロンドンの国会議事堂だそうです。ルネサンス様式のチャールズバリュー卿の設計を採用したそうです。そして、ゴシック様式の専門家の助言を得ながら建築したそうです。
ロンドンの国会議事堂
そして、彫刻や絵画の世界では、新たな問題が浮上しはじめました。
芸術家達は、無限の選択肢を持ち、パトロン達の要求も無限となり、芸術家達は、パトロンの要求に応えるべきか、または、自身の描きたいものを描くべきか?で葛藤したそうです。
そして、世間は、今までのように、上手い作品を求めるのではなく、作品を通して、芸術家の美しい魂と出会えるような作品を求め始めたそうです。
この時代から、真の芸術家とは、自力で考える勇気と執念を持ち、正面切って伝統を批判的に見直すことによって、美術の新しい可能性を開いた、一握りの孤独な人たちのことを指すようになります。
そして、パリが芸術の舞台となります。
アングルのヴァルパンソンの浴女です。
アングルは、古典古代の英雄的な美術の称賛者で、正確な描写の大切さを主張したそうです。
そんなアングルの反対者が、あのドラクロアです。
ドラクロアは、絵画では、正確なデッサンよりも色彩が、知識よりも想像力が大切だと信じていたそうです。
ドラクロアのアラブ騎兵隊の侵攻です。
そして、そのドラクロアが支持していた風景画家が、フランス人、カミーユ・コローです。コローのティボリのヴィラ・デステの庭です。
コローは、コンスタンブルと同様に、目に見えるものを忠実に絵にしたいと思ったそうです。しかし、コローの場合、モチーフの細部より、全体としての形態と色調を重要視したとか。
100年ほどまえ、フラゴナールもヴィラ・デステの庭を描いています。こちらです。
フラゴナールは、チョーク画です。場面の面白さや変化を追及し、コローは、プッサンやクロードロランに通じるような、透明感と調和を求めたと言われているそうです。
クロードロランのアポロへの生贄の見える風景です。
そして、絵画界で革命が起きつつありました。
アカデミーでは、絵画は立派な人物を描かねばならない、と教えていたそうです。
しかし、コンスタンブルの構想にならって、自然を新鮮な目で見ようというグループがフランスのバルビソン村に集まっていました。その一人が、あのミレーです。
ミレーの落穂拾い
そして、クールベが続きます。
クールベの出会いです。
クールベは、誰にも教えを請うことなく、自然だけに習おうとしたそうです。
彼の目でみたままに描く方法は、写実主義と呼ばれました。
彼は、絵によって、当時の常識に抗議し、偉い画家にショックを与えたかったそうです。
そして、フランスにおける絵画の革命の第三波は、マネによって引き起こされます。
マネは、印象派を生み出します。マネは、外の光の下でのモノの見え方と動くモノの描き方を研究しました。
マネの初期の作品、バルコニーです。
ロンシャンの競馬です。
そして、マネに賛同し、新しい考え方を広めたのが、モネです。
マネのボートの上で写生するモネです。
モネのサン・ラザール駅です。
そして、若い画家達は、モネの印象派を風景画だけではなく、実生活の色々な場面にも適用しました。
この絵は、嘲笑と憤慨を巻き起こしたそうです。
一見、未完成のように見えるこの絵は、前の部分の人物を詳細に描き、後ろに位置する人物は、ぼやけています。ルノワールはこう考えたそうです。私達は、こういう風景を前にしたとき、まず、目の前の人物をはっきりとみる、そして、後ろの人物は、はっきりとは見ない、それを絵に表現したため、未完成に見えるような完璧な絵に仕上がったそうです。
そして、印象派の一人、ピサロのイタリア通り、朝、日射しです。
印象派は、美術界で勝利しました。その援軍となったものが、二つあります。カメラと日本の浮世絵です。
では、浮世絵を見てみましょう。
葛飾北斎の井戸凌の不二です。
19世紀半ば、日本は欧米と通商条約を結ばざる負えなくなり、日本からの輸出品の包み紙として、浮世絵が使われるようになったそうです。そして、その浮世絵にいち早く注目したのが印象派の画家達だったそうです。
ヨーロッパの伝統の画法に全く犯されていない浮世絵は、画家達に衝撃を与えたそうです。
喜多川歌麿の春宵図です。
そして、浮世絵の画法に最も影響を受けたのが、あのドガだそうです。
出番を待つ踊り子たちです。
そして、彫刻もまた、モダニズムの是非を問う論争に巻き込まれていったそうです。
フランスの彫刻家、ロダンの彫刻家ジュール・ダルーです。
ロダンは、敢えて石の一部をそのまま残したりすることによって、見る者の想像力をかきたてようとしたそうです。
そんなロダンの神の手です。
この時代、世界中の画家達がパリにやってきて、印象派に出会い、刺激を受けたそうです。
そんな画家達の一人、アメリカ人のホイッスラーの灰色と黒のアレンジメントです。
ホイッスラーが、最も重要視したのは、光と色の効果ではなく、絵の全体を支配する微妙な構図だったそうです。また、ホイッスラーは浮世絵に影響を受けました。
ホイッスラーの浮世絵風の夜景、青と金色のノクターンです。
ホイッスラーは絵のタイトルのつけ方にもこだわっていたそうです。
伝統の解体 18世紀末から19世紀初頭のイギリス、アメリカ、フランス
伝統の解体 18世紀末から19世紀初頭のイギリス、アメリカ、フランス
1492年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見が、近代の始まりと言われているそうです。
美術においては、1789年のフランス革命によって、近代が始まったと考えられています。
それまで、美術の世界は、その時代に流行した様式にこだわってきました。
しかし、芸術には、様々な様式があり、流行の様式に従うことはない、と考え始める人々が出てきます。
それによって、今までとは違う風変わりな建築物が建てられていったそうです。
画家達はどうしたかというと、新しい絵の主題を探し始めたそうです。
そして、イギリスで仕事をしたアメリカの画家達がそれだったそうです。
コープリーの1641年、議会で弾劾された5名の議員の引渡しを要求するチャールズ1世です。
また、1789年からのフランス革命は、歴史に対する関心をかきたて、画家達は英雄的な主題を求めたそうです。コープリーの絵は、イギリスの歴史を研究して描いたロマン主義が表れていますが、フランスでは、革命家たちが、ローマ人の生まれ変わりと考えたがったため、建築にも絵画にもローマ的壮麗さが表れていたそうです。
それが、新古典様式と呼ばれているものだそうです。
その新古典様式の先駆けとなったのが、ダヴィッドです。
ダヴィッドのマラーの死です。
革命の指導者の一人、マラーの死を、ギリシャやローマの彫刻を研究し、筋肉や肋骨をどのようにあらわせば、高貴な姿になるか?そして、不必要なものをすべて排除する単純化の方法を古典美術から学んだダヴィッドが描きました。
古いタイプの主題に疑問を投げたスペインの画家、フランシス・ゴヤはダヴィッドと同じ時代です。ゴヤは、エルグレコやベラスケスを生んだスペインの絵画に精通し、バルコニーのマハたちを残しています。
こちらです。
肖像画も残しています。フェルディナンド7世です。
ゴヤは過去の約束事から自由であることを信条とし、絵画だけではなく、版画も残しています。アクアティントという新しい技法を発見しました。
ゴヤの巨人です。
歴史や聖書、風俗といったものを描かなかったゴヤは、悪夢などを絵の主題としました。
そして、そんな美術の新しい取り組みを徹底したのが、イギリスの詩人であり画家のウィリアムブレイクです。
創生の時です。
そして、このように画家が主題を自由に選べるようになり、風景画という分野が大きな力を得たそうです。
伝統と張り合い、それを乗り越えようとしたターナーと対照的なのが、コンスタンブルです。
木の習作
コンスタンブルは、自分の目が見たように描いたそうです。ですので、絵のような題材を選んでいない。
コンスタンブルの
干し草車です。
イギリスとフランス 18世紀 理性の時代
イギリスとフランス 18世紀、理性の時代
プロテスタントにとっては、教会とは、礼拝のための巨大ホール、カトリックにとっては、天国という別世界のヴィジョンを示すものだったそうです。
よって、宗教改革によって、プロテスタントが圧勝したイギリスとフランスでは、教会は、カトリックのそれと比較しますと、質素なものでした。また、建築も同じで、特にイギリスでは、趣味のよさと理性に忠実であろうとし、バロック様式を嫌ったようです。
そんなイギリス人の理想の住まいは、田舎の別荘、カントリーハウスと呼ばれるものだったそうです。
チズウィックハウスです。
イギリスの建築家たちは、16世紀の建築家パッラーディオの書いた本をテキストとしていたそうです。
イギリスでは、あのヴェルサイユ宮殿さえも、不合理で人工的なものとして批判されていたそうです。そんな時代のイギリスにおいて、庭は、自然の美しさを反映し、画家がみても驚くような美しい庭でなければならなかったそうです。
スタウアヘッド庭園です。
イギリスのプロテスタントは、教会美術に反対でした。そんなイギリスにおいて、画家達の仕事は、肖像画に限られ、その限られた仕事さえも、ホルバインやヴァンダイクのような大陸で成功した画家にとられている状況だったらしいです。
そんな状況に苛立っている若い画家がいました。ホガースです。
ホガースの放蕩者です。
これは、精神病院を描いたもので、あらゆる狂人が描かれている恐ろしい絵です。
完成したバロック様式 権力と栄光 17世紀後半~18世紀イタリア
完成したバロック様式 権力と栄光 17世紀後半~18世紀イタリア
バロック様式で有名な建築家ボッロミーニが建てたサンタニューゼ聖堂です。
プロテスタントの教会が外見の華美を嫌ったのに対して、ローマ・カトリック教会は、芸術家達の力をますます活用するようになっていました。
この時代、活躍した彫刻家、ベルニーニのコスタンツァ・ベルニーニの胸像と聖女テレサの法悦です。
聖女テレサの法悦では、聖女は恍惚とした表情をしています。
そして、ベルニーニの弟子ガウッリの、天井装飾、イエスの御名の勝利です。
18世紀のイタリアの画家は、室内装飾を得意としていたそうです。彼らの技術の高さは、ヨーロッパ中にしれわたり、どんなお城も、あっという間に豪華絢爛な空間に生まれ変わったそうです。
ティエーボロのクレオパトラの晩餐会です。
しかし、見ようによっては、打ち上げ花火のようなこういう作品には、かつての落ち着いた作品ほどの永続的な価値が感じられないそうです。イタリア美術は終わろうとしていたそうです。
そして、イタリア美術には、風景画と風景版画という新しい分野が生まれ始めていました。
グァルディのサンジョルジョマッジョーレ聖堂です。
ここで、1世紀前に描かれがシモンデフリーヘルの絵と見比べてみます。
様々なヴィジョン ヨーロッパのカトリック世界 17世紀後半
様々なヴィジョン ヨーロッパのカトリック世界 17世紀後半
美術の歴史は、スタイルの歴史だそうです。
そして、そのスタイルは、いち早く建築に現れていたそうです。
教会の権威を表すため、教会という建物を芸術的にし、人々の尊敬を集めたかったとか。
10世紀末から12世紀初頭には、ロマネスク様式が流行したそうです。
こちら、ピサの斜塔です。
ロマネスク様式の特徴は、円形アーチ、壁が厚いなどだそうです。
窓が、この時代はなかったのでしょうか?調べたのですが、わかりませんでした。すみません。
そして、次、12世紀半ばから15世紀までは、ゴシック様式が流行。尖塔アーチと、技術が発展して、大きな窓が作れるようになり、その窓には色とりどりのステンドグラスが。そのステンドグラスで、聖書の物語が描いたそうです。文字の読めない方にも、聖書の物語を説けるようになったとか。
こちら、パリのノートルダム寺院です。
そして、ルネサンス様式。15世紀から16世紀まで。
古代ローマを手本とし、円柱やアーチ、ドームを作り、外壁には模様が入れ始められたそうです。
こちら、
16世紀から18世紀前半までが、過剰なまでの装飾で有名なバロック様式。お金がたくさん必要だったとか。とてもスケールの大きな作品が多いようです。
ローマのトレヴィの泉です。
最後に18世紀に流行したロココ式。
これは建築ではなく、インテリアに流行したそうです。左右対称が基本で、身近な人との心温まるひと時を願ったとか。
では、17世紀前半のヨーロッパのカトリック世界を覗いて見ましょう。
この時代、ローマの教養人たちは、同時代の芸術家達の様々な運動について積極的に論じたそうです。そんな中で、注目を集めていたのが、カラッチVSカラヴァッジョでした。
カラッチは、ヴェネチア派とコレッジョの流れを汲む一派に属し、あの理想日を追及したラファエロに魅了されていたそうです。カラッチはラファエロの美術に意識的に反対したマニエリストとは違い、ラファエロの明快な美を復活させようとしたそうです。
そして、ローマにおいて、カラッチ一派のスローガンは、古典美を復活させることだったそうです。
そんなカラッチのピエタです。
一方、カラバッジョは、醜さを恐れず、自然を忠実に写し取ろうとしたそうです。
カラヴァッジョの聖トマスの不信です。
使徒たちは、今までの描かれた優雅な使徒たちとは全然違います。日焼けし、額はしわだらけ。しかし、カラヴァジョに言わせると、聖書に描かれている通りに描いたそうです。
では、他の画家を見てみましょう。
カラッチに続いたグイドレーニです。
ラファエロと並び称された時代もあったそうです。
グイドレーニのアウローラです。
こうして、カラッチ、そしてカラッチに続くグイドレーニを始めとする後継者たちは、古典古代の彫像を基準にして自然を理想化し美化する手法を定式化したそうです。
アカデミックな手法と呼ばれるそうです。
そんなアカデミックな手法の頂点にたつのが、ニコラプッサンです。
そして、ここで、ローマの風景画を研究したクロードロランを見てみましょう。
アポロへの生贄の見える風景
自然の美へ、人々の目を開かせたのが、このクロードだったらしいです。
余談ですが、クロードロランの絵のような風景に出会うと、人々は、素敵な風景だと言ったそうです。
そして、今話題のリュベンスが出てきます。彼は、フランドル(オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部の地域)出身で、カラッチ派にもカラヴァッジョ派にも属さなかったそうです。リュベンスが興味を持っていたのは、変化に富む物の表面をどう表すかだったそうです。
また、イタリアの画家が神聖視していた美の基準にも捉われず、権威ある主題にもあまり関心がなかったそうです。
そんなリュベンスの聖母子と聖人たちです。
リュベンスは、色彩溢れる巨大画面を構成する能力と、そこに生命を吹き込む才能を兼ね備えていたため、画家としての名声を得たそうです。宮殿を豪華絢爛たるものにし、世俗の権力を褒め称えるのに、リュベンスの絵はうってつけだったとか。
そんなリュベンスの、子どもの頭部
リュベンスの自画像
ネーデルラントは、オランダとフランドルに分かれていたそうです。オランダは、カトリック支配に抵抗し、フランドルは、スペインカトリックに忠誠を誓っていたそうです。
リュベンスは寓話的な絵も描いています。
こちら、戦争と平和の寓意です。
そして、リュベンスには、アントーン・ファン・デイクという弟子がいました。
あまり健康ではなかったとか。
リュベンスとは異なり、気だるく物憂げな雰囲気漂う作品を残しています。
こちらは、チャールズ一世です。
そしてこの時代、あのベラスケスが登場します。
彼はカラヴァッジョに深く感銘を受け、自然主義の手法を吸収したそうです。
そんなベラスケスのセビリアの水売りです。
ベラスケスの有名なラス・メニーナスです。
自然の鏡 17世紀オランダ
少しだけ歴史を。
ネーデルラントとは、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの低地地域内に存在した諸邦群のことです。17世紀、今、ベルギーと呼ばれている南ネーデルランドでは、カトリックの支配でした。一方、ネーデルランドの北部、オランダでは、多くの裕福な商人たちがプロテスタントを信仰したそうです。倹約をよしとし、南の趣味を受け入れなかったそうです。
宗教改革によるプロテスタンティズムの勝利は、建築よりも絵画に強く影響を与えたそうです。
プロテスタントが勝利したイングランドとドイツでは、画家や彫刻家たちは仕事を失い、魅力的な職業ではなくなっていったそうです。
そんな時代の画家、ハルスの聖ゲオルギウス市民隊の幹部たちの宴会です。
ピーテル・ファン・デ・ブロッケの肖像
また、美術史上、初めて、空の美しさを発見したのは、この時代のオランダだそうです。
シモン・デ・フリーヘルの絵画です。タイトルはわかりませんでした。すみません。
フリーヘルは、海洋風景の専門家だったそうです。
そして、風景画のヤン・ファン・ホーイエンの川べりの風車です。
同じく風景画を描いたクロードロランと同じ年代です。
クロードロランのアポロへの生贄の見える風景です。
ホーイエンは聳え立つ神殿の代わりに見慣れた風車を描き、夢のような森の中の沼地の代わりに、ありふれた近隣の情景を描いています。
クロードの絵は、イギリス人の想像力を虜にし、身の回りの自然に手を加えてクロードのような絵にしたそうです。そして出来たクロード風の庭をピクチャレスクと呼んだそうです。
しかし、身近な風景の中に美しさがあることを始めて教えてくれたのは、ホーイエンでした。
そして、あのレンブラントが登場します。
裕福なお家に生まれたレンブラントは、学問を捨て、画家への道を選んだそうです。
レンブラントの自画像。
ヤン・シックス
ダヴィデとアブサロムの和解
レンブラントは光と影の魔術的効果を利用したそうです。
また、レンブラントは画家としてだけでなく、版画家としても才能を発揮しました。
こちらは、教えを説くキリストです。
レンブラントは、自然主義カラヴァジョの影響を受けた画家を通して、カラバッジョに触れていたそうです。醜さを恐れず、真実と誠実さを大切にしたそうです。
そして、今話題のフェルメールも17世紀オランダの画家です。
牛乳を注ぐ女