永久革命 イギリスとフランス 19世紀

永久革命 イギリスとフランス 19世紀

 

この時代、産業革命が伝統的な職人技を破壊し始めたそうです。

その変化は、まず、建築に現れたそうです。

 

注文主は、例えば、入り口はゴシック様式に、建物全体は、バロック様式に・・・と注文したそうです。奇妙な建物が出来上がっていく中、今現在でもランドマークとして溶け込み、人々の視線を集めているのが、ロンドンの国会議事堂だそうです。ルネサンス様式のチャールズバリュー卿の設計を採用したそうです。そして、ゴシック様式の専門家の助言を得ながら建築したそうです。

 

ロンドンの国会議事堂

 

 

 

 

そして、彫刻や絵画の世界では、新たな問題が浮上しはじめました。

芸術家達は、無限の選択肢を持ち、パトロン達の要求も無限となり、芸術家達は、パトロンの要求に応えるべきか、または、自身の描きたいものを描くべきか?で葛藤したそうです。

 

そして、世間は、今までのように、上手い作品を求めるのではなく、作品を通して、芸術家の美しい魂と出会えるような作品を求め始めたそうです。

この時代から、真の芸術家とは、自力で考える勇気と執念を持ち、正面切って伝統を批判的に見直すことによって、美術の新しい可能性を開いた、一握りの孤独な人たちのことを指すようになります。

 

そして、パリが芸術の舞台となります。

アングルのヴァルパンソンの浴女です。

 

 

 

 

アングルは、古典古代の英雄的な美術の称賛者で、正確な描写の大切さを主張したそうです。

そんなアングルの反対者が、あのドラクロアです。

ドラクロアは、絵画では、正確なデッサンよりも色彩が、知識よりも想像力が大切だと信じていたそうです。

ドラクロアのアラブ騎兵隊の侵攻です。

 

 

 

 

そして、そのドラクロアが支持していた風景画家が、フランス人、カミーユ・コローです。コローのティボリのヴィラ・デステの庭です。

 

 

 

 

コローは、コンスタンブルと同様に、目に見えるものを忠実に絵にしたいと思ったそうです。しかし、コローの場合、モチーフの細部より、全体としての形態と色調を重要視したとか。

100年ほどまえ、フラゴナールもヴィラ・デステの庭を描いています。こちらです。

 

 

 

 

フラゴナールは、チョーク画です。場面の面白さや変化を追及し、コローは、プッサンやクロードロランに通じるような、透明感と調和を求めたと言われているそうです。

 

プッサンアルカディアにも我はありです。

 

 

 

 

クロードロランのアポロへの生贄の見える風景です。

 

 

 

 

そして、絵画界で革命が起きつつありました。

アカデミーでは、絵画は立派な人物を描かねばならない、と教えていたそうです。

しかし、コンスタンブルの構想にならって、自然を新鮮な目で見ようというグループがフランスのバルビソン村に集まっていました。その一人が、あのミレーです。

ミレーの落穂拾い

 

 

 

そして、クールベが続きます。

クールベの出会いです。

 

 

 

 

クールベは、誰にも教えを請うことなく、自然だけに習おうとしたそうです。

彼の目でみたままに描く方法は、写実主義と呼ばれました。

彼は、絵によって、当時の常識に抗議し、偉い画家にショックを与えたかったそうです。

 

 

 

 

そして、フランスにおける絵画の革命の第三波は、マネによって引き起こされます。

第一の波は、ドラクロア、第二の波は、クールベでした。

マネは、印象派を生み出します。マネは、外の光の下でのモノの見え方と動くモノの描き方を研究しました。

 

マネの初期の作品、バルコニーです。

 

 

 

 

ロンシャンの競馬です。

 

 

 

 

そして、マネに賛同し、新しい考え方を広めたのが、モネです。

 

マネのボートの上で写生するモネです。

 

 

 

 

モネのサン・ラザール駅です。

 

 

 

 

 

そして、若い画家達は、モネの印象派を風景画だけではなく、実生活の色々な場面にも適用しました。

 

ルノワールムーランドギャレットの舞踏会です。

 

 

 

 

この絵は、嘲笑と憤慨を巻き起こしたそうです。

一見、未完成のように見えるこの絵は、前の部分の人物を詳細に描き、後ろに位置する人物は、ぼやけています。ルノワールはこう考えたそうです。私達は、こういう風景を前にしたとき、まず、目の前の人物をはっきりとみる、そして、後ろの人物は、はっきりとは見ない、それを絵に表現したため、未完成に見えるような完璧な絵に仕上がったそうです。

 

 

 

 

そして、印象派の一人、ピサロのイタリア通り、朝、日射しです。

 

 

 

 

印象派は、美術界で勝利しました。その援軍となったものが、二つあります。カメラと日本の浮世絵です。

 

では、浮世絵を見てみましょう。

 

葛飾北斎の井戸凌の不二です。

 

 

 

 

19世紀半ば、日本は欧米と通商条約を結ばざる負えなくなり、日本からの輸出品の包み紙として、浮世絵が使われるようになったそうです。そして、その浮世絵にいち早く注目したのが印象派の画家達だったそうです。 

ヨーロッパの伝統の画法に全く犯されていない浮世絵は、画家達に衝撃を与えたそうです。

 

喜多川歌麿の春宵図です。

 

 

 

そして、浮世絵の画法に最も影響を受けたのが、あのドガだそうです。

ドガのアンリ・ドガと姪のルーシーです。

 

 

 

 

出番を待つ踊り子たちです。

 

 

 

そして、彫刻もまた、モダニズムの是非を問う論争に巻き込まれていったそうです。

フランスの彫刻家、ロダンの彫刻家ジュール・ダルーです。

 

 

 

 

ロダンは、敢えて石の一部をそのまま残したりすることによって、見る者の想像力をかきたてようとしたそうです。

そんなロダンの神の手です。

 

 

 

 

この時代、世界中の画家達がパリにやってきて、印象派に出会い、刺激を受けたそうです。

そんな画家達の一人、アメリカ人のホイッスラーの灰色と黒のアレンジメントです。

 

 

 

 

ホイッスラーが、最も重要視したのは、光と色の効果ではなく、絵の全体を支配する微妙な構図だったそうです。また、ホイッスラーは浮世絵に影響を受けました。

 

ホイッスラーの浮世絵風の夜景、青と金色のノクターンです。

ホイッスラーは絵のタイトルのつけ方にもこだわっていたそうです。